
昨年5月、海老蔵が知盛を演じたとき、典侍の局は魁春だった。私にとっては、今回の典侍の局よりも、そちらのほうが面白い。玉三郎は、渡海屋女房お柳から局に転じたときの、変化が物足りない。これは、お柳の世話女房ぶりのくだけ方が足りないからであろう。
洗い物をするか、しないか。話題は全くの世話である。そして、主人の銀平は、天気のことならなんでもお見通しで、一本取られてしまったという、のろけ半分の喋りである。魁春のお柳は、『吃又』のお徳よろしく、喋り始めたら止まらないというような勢いで、廻船問屋を切り盛りする女房以外の何者でもないお柳だったのだが、玉三郎はそこまで演じてはいなかった。これは、典侍の局の格を重んじて、敢えてそうしていたのだろう。
渡海屋銀平が知盛となって登場した後、安徳帝とともに二重に上がり、そこから知盛に話し掛けるという部分の変化も面白いが、海辺の苫屋の御簾が上がり、緋の袴を着けて現れる場面の驚きと言ったらない。うらさびれた大物浦に、突如、きらびやかな宮中が出現する。
玉三郎の橙色の袴には、私が典侍の局は緋の袴というイメージを持ってしまっていたので、違和感があった。ここは、後ろに並ぶ女官達と同じ緋がいいのではないか。そうでなければ、場としての統一感が出ず、視覚的にも納まりの悪いものになってしまう。ここで第一に見せるべきは、宮中という『場』であると、私は思う。
これは、壇ノ浦の平家滅亡の様を再現してみせるという見事な脚本だ。典侍の局と安徳帝の『海の底にも都はある』というやりとり、女官たちの入水の様、そして、知盛の碇の綱を巻きつけての投身は、そのまま壇ノ浦の再現となる。その悲劇を語り継ぎ、語り継ぐことによって再現し、供養してきた日本人の心情に訴えようとするのだ。
その脚本の意図するところを、しっかり舞台の上にのせてもらいたいのだが、どうだったろう。
後ろに並ぶ女官たちの入水が丁寧に演じられないので、その悲壮感が高まっていかない。一人一人の入水が、意を決して飛び込むというふうではない。魁春が演じたときは、次々と女官たちが姿を消した後、最後に残った典侍の局と安徳帝の、極まで行った悲壮感が舞台上にはっきりとあったのだが、今回の舞台には、それを感じなかった。そもそも、玉三郎の典侍の局は、女官たちのほうを、見ていなかった。魁春のときに、私が極まで行った悲壮感を感じたのは、魁春がそう演じていたからではあるまいか。
また、典侍の局自らが安徳帝を抱えて入水を試みるところへ、義経側の兵卒が止めに入るのであるが、ここの玉三郎に、『生きて虜囚の辱めを受けず』という気持ちがあるようには、私には見えなかった。タイミングがずれてしまっただけかもしれないが、右腕を摑まれた後、もう一方の腕を伸ばしたまま、捕り手に摑まれるのを待っている一瞬があり、そんなリアリティーから離れた演技も時代物であればよいのか、それで切迫感が出るのだろうかと、疑問に思った。これでは、この脚本の、壇ノ浦の平家滅亡の再現という意味が成立しない。
おどろおどろしい姿で登場する吉右衛門の知盛は、戦場の修羅をそのままに見せる。全身が傷付き、血糊にまみれ、髪は逆立ち、目は充血し、息が上がってしまっている。孤軍奮闘した後の、鈍い熱を帯びている。もはや立て直すことのできない死の淵に向かう傾斜の上に、知盛は立っている。
乱れ一つない、きらびやかな甲冑を纏った義経主従とは、甚だしい対照を成す。戦いに勝った者と、負けた者との振り分けは、容赦がない。そして、戦場の殺し殺される修羅を生きる男たちは、今の勝利が明日の敗北に繋がっていることを、誰よりもよく知っているのだろう。
同じ武人としての情けから、弁慶は知盛に数珠を掛け、出家を勧める。しかし、知盛は『汚らわし』と、投げ捨てる。
『討っては討たれ、討たれては討つ これ源平のならいなり。生き変わり、死に変わり、恨み晴らさでおくべきか』
吉右衛門から搾り出される、戦うことを運命付けられた武将の、救いのない言葉が胸を打つ。
その知盛の震えるような思いが、『我を供奉(ぐぶ)し、永々の介抱は、そちが情、今また我を助けしは、義経が情なれば、仇に思うな、これ知盛』という安徳帝の言葉に出会って急速に冷めていく。これを安徳帝に言わせるところが、また、この脚本の優れたところだ。そうでなければ知盛に、思い切らせることはできない。
知盛は、自分の敵愾心がもはや無意味であることを知る。天皇制にとって武人の力は、ただ御するためのみにあることを悟る。諦める。武人であることの悲しみが出る。
戦いで味わう六道の苦しみは全て父清盛の天罰の報いと、自らの命に引導を渡す。知盛の台詞が、舞台の枠を超えて、この世には、この嘆きが全てであるかのように響く。吉右衛門の悲痛な叫びは、胸に突き刺さるようにして入ってくる。
敗残者は消え去るのみ。崖の突端で碇によろめく体を預ける知盛の姿は、傷付いた獣の生々しい美しさを見せ、やっとのことで碇を頭上に掲げた姿は、命の最後の輝きを見せる。
重力に引き摺られ、後ろ向きに落下していく知盛に、壮絶ではありながら、敵の手にかからず命を終える安堵を、私は感じた。
幕切れに弁慶が三度吹く法螺貝は、やがて自分達の運命もそこに重なっていくであろう武人知盛への、鎮魂の調べである。
追記:
絞るようにして転調していく三味線の音とともに、軍語りが始まる。どう語られるのだろうかと、期待が高まる。
『御注進~』と駆け込んでくる歌六演じる相模五郎の動きに、どうも切れがない。反対に、手負いのはずの歌昇演じる入江丹蔵の動きが良かった。
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