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NGATARI / ガタリ



Last Updated: 8/31/2009

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Thursday, June 18, 2009 
ぼくは、二億年先に宇宙が消滅すると言われても、そんなことまったく、全然信用しない。
二日後のことにだってカイギテキなのに、暫定的な宇宙なんて想像の域を超えている。

人間は恒久的に生きるという(病的なまでの)前提があって、はじめてノーミソに行動プランを提案できる。すべては…、音楽も本も、人も、完全に時間に縛られているにも関わらず。

尺のない音楽とか、めくるページのない本とか、
無害化された存在とか、ツルゲーネフを読む高校生とか、ポップな新聞勧誘とか、
穴の空かない靴下とか、飽きない女の子とか、目測を誤る猫とか、狡知な植物とか、
現在を素通りする歴史とか、どこにも到着しないセックスとか、生前の哀悼とか、
響きも倍音もない、今、ここ、だけに留まるアンサンブルはどこにあるのだろうか。

憎しみも死別も、失恋も、ゆるやかなグラデーションを経て、ぷっつり消える。
それは時間の圧倒的な力がそうさせるのではなくて、
血の巡りや、星回りのようなものだと思う。
たとえば、春になると猫の毛が生え変わって、
いつも毛布を持ち歩いていたような身体が、新しくなるのと同じような、テクノな脱皮。
というようなことを、
最近、出産を控えた友達に会ったりして、考えてるわけです。
しかし、…こんなこと言うと、フェミニストたちは激昂するだろうけど、
誰がなんと言おうと、妊婦はグロテスクだよね。


それにしても、パンかライスかみたいな問いって、日本独自なのかな?


itunes storeより、お知らせ。
http://itunes.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewAlbum?id=311212754&s=143462
Monday, June 15, 2009 

Current mood:  loved
近美に「コラージュ展」を観に行く。
いつも思うけれど、コラージュはどこか清々しい。
頭のなかにある「他人」の意匠を切り貼りして、おおきな世界地図を作っていく行為は、
実に今的であるし、サンプリング行為それ自体、非常に優雅だ。
そもそも、創造は、無数の剽窃で成り立ってるんだけどさ。言わずもがな。
「鈴木崇」という人の写真が良かった。

昔から思っていたのだけれど、嘘を追及されるとき、つい「何が?(不機嫌そうに)」と反応してしまうのは何故でしょうか。不思議です。ぼくだけでしょうか?不思議です。

思うのだけれど、女の子と食事をするという行事は、男性の生活のなかで唯一、「パブリックになりうるプライベートな儀礼」だと思う。意味わかんないか?わかんないな。

詩や音楽が人間にとっての時間を作り出すのである。
http://blog.tatsuru.com/2009/02/28_1013.php
Friday, February 06, 2009 


猫の一日は大きくわけて四種類の行動から成り立っている。
ひとつひとつ写真つきで検証したいところだけど、紙数(じゃなくてバイト数)がもったいないので割愛。
箇条書きで記すことにします。わかると思います。

1.無反省に石になる
2.そよ風の研究
3.失われた記憶を探し回る
4.くしゃみに過剰反応

ところで、家猫は中間的な速さで家のなかをうろうろします。敵襲から逃げるために疾走するわけでもなく、のそのそと平原を闊歩するわけでもなく、彼らは、まるでスキップするように、あるいは子馬のように、かっぽかっぽと部屋のなかを闊っ、いや、散策するのです。
カワイイです。



平野啓一郎「決壊」を読む。続いて、「ウェブ人間論」を読み、「ウェブ進化論」を読む。
既得権益や大企業のロジックを根本から変えてゆくオープンソースの思想や、googleによる、世界を再編成しようとする挑戦は、痛快だし、ある種のカタルシスのようなものを感じたのだけれど、何か違和感を持ってしまう。なんだろう、この素直に頷けない原因は。
ただぼくがテクノロジーに畏怖の念を感じているだけだろうか。
あるいは、権威に対抗する権力にもまた反感を抱いているのだろうか。
よくわからない。
でもたとえば、アップルストア、mp3への移行は、「音楽にテクスチャーがない」ということを私たちに突きつけた。(レコードのジャケットはテクスチャーではないし、本の装丁が持つ時間を秘めた手触りでもない。タグだなあれは。)
でも、本当に音楽に手触りはないのだろうか。ただメディアが変容しただけなのだろうか、本当に?というような問いが、アップル社の人々にはない気がする。
曖昧にしか書きようがないのだけれど、理性的には肯定するけれど、感覚的に頷けない真因は、そのような「ちょっとまって、これでいいのか?本当に?」という自制がどこにも見当たらないからかもしれない。
ぼくは著作権なんて大嫌いだし、音楽も文章もプログラムコードもオープンソースとして無条件に世界に開放して、不特定多数の人々がアクセスできればいいと思うけれど、彼の(著者の)ネット至上主義的な「自分たちが正しい」という反証もない正義の姿勢には、なんとなく同意することができない。
まぁでも、世界はWeb.2.0によって、変わりつつある、ということは確かなようですけど。(「人間の頭のなかに入りきらない記憶の容量の大部分がネットの世界にある。」―頁177 ウェブ人間論)



ブクログという自分の本棚を作るサイトがある。
書架というのは、裸体を曝け出すようなものだと思うかもしれないけれど、他人の書架を見ても、その人がどういう人なのか全然わからなかった。
ブログなどで自己紹介の欄に「好きな食べ物」とか「フェイバリットミュージック」なんて項目があるけれど、いっそ、「嫌いな食べ物」とか「嫌悪する音楽」にしたほうがその人のヒトトナリを明快にするのではなかろうか。
「わたし、村上春樹好きなんですよ」と言われるよりも、「ぼく村上春樹は嫌いです。」という一言のほうが明示的な主張に見えませんか?

 


最近「夢は何ですか?」と尋ねられて、しばらく考えた後に答えた内容が
二年前に同じ質問をされて回答した内容と真逆であった。
という事実に感動する。いやはや、ニュートラル。
(夢は何?という質問がこんなにぼくの周囲に溢れている事実も素敵だけれど。)


Beatlesを無反省に聴きまくる。
今更だけれど、Travisって、ABBEY ROADのHERE COMES THE SUNですよね。いいけど別に。


池田満寿夫「思考する魚」を古本屋でついに購入。
なんか読むのが億劫。


クッキーそれ自体よりクッキーの匂いのほうが素敵だと思う。
つくづく、そう思う。

Wednesday, January 21, 2009 


ひと括りにしてすまないとは思うけれど、
ぼくは主婦がドーナツ屋さんでドーナツを注意深く吟味している姿が好きではない。
スーパーマーケットで、シンボリックな長ネギを携えて、じゃがいもを点検している主婦の様は好きなのだけれど。
何故だろう。ドーナツを選ぶ姿があるいはぼくにある種の無為を思わせるからかもしれない。
若い奥様たちが、「いいとも」を流しながら、ずるずるお茶を啜る光景を想像してしまうからかもしれない。
よくわからない。そういうのは偏見なんでしょうね。


昨日、ピアノの前で譜面をかりかり書いていて、消しゴムでいくつかの音符を消した直後のことだった。
「あ、この箇所消しちゃまずかったかな」と思った途端、左手の小指がCtrlを、中指がZのキーを探して宙を泳いだ。
がーん。
(WindowsOSのソフト全般において、「一つ前の工程に戻す」ためのショートカットキーが、Ctrl+Zなのです。)
良きにせよ悪しきにせよ、「やりなおす、には⇒左手を斜め前方に配置して小指と中指を運用する」というふうに脳みそが訓育されているということだ。自律的身体からの解放である。がーん。
そこには、自律的な意思決定はない。脳から身体へのトップダウン的指令が、中枢神経をすっとばして、直接指先に伝達されているのである。
それはたとえば、熱いものを触ったときに、とっさに耳に手を当ててしまうことと同じであるし、まさしく「非中枢的な身体」と言える。

―運動だけがあって反省のない身体、刺激の意味について省察する中枢を関与させないで反応する身体(・・・)「非中枢的な身体」とは決して速く動く身体のことではない。それは知覚情報を統括し統一的な指示を全身に発令するべき中枢を欠いた、「寸断された身体」「アナーキーな身体」である(内田樹著@私の身体は頭がいい)―

こういうのを職業病とも言えるけれど、この徴候は重要であるように思う。脳から中枢神経(あるいは心)を中継してキーボードを叩く一連の動作の、「心」の部分を通過せずに、身体を応答させるという身体運用はスポーツの訓練においても当然取り入れられているし、楽器演奏においても、緊要な能力である。「とっさの判断」というのは、「めちゃ速い動き」ではなくて、「意志を介在させない動き」なのだろう。
これが、本当の意味での"ショートカット"かもしれない。
それにしても、「時間軸を遡って戻す」という動作が、違和感なく身体化されているというのは、よくよく考えるとまったくスゴイことだと思いませんか?

そう思うとブラインドタッチもすごいよな。あたまに「こんにちは」というセンテンスが浮かぶ、たぶん口の筋肉もそれに伴って「こんにちは」と発語する準備をする、右手がKとOを探している間に、左手はWとAの上に置かれる。この同期作業は、もはや母語を(あるいは、熟達した言語を)話す言語活動とほとんど変わらないんじゃないか?
つたない外国語を使おうとしたときに、頭のなかに"こんにちは"と浮かべてから、"Bonjour"と発音することがあるけれど、これは「こ、こ、こん、にち、・・・は」という感じでパソコンの画面を凝視しながら、人差し指だけでキーを叩いているオジサンの心身構造と似ている。
習熟した外国語話者が、ひととぶつかったとき、とっさに「Sorry」と口からでるのは、頭のなかの翻訳活動が省かれているからである。外国語に慣熟するには、言葉を理解するまえに発音するための心身的ストラクチャーをうまく起動させること(ようするに、はえーってことだけど)に他ならない。

文字をペンで書くための指令を出す脳内部位と、言語活動を処理する脳内部位とでは、まったく別であるのに対して、ブラインドタッチ(あるいはChatとか)と、言語活動を司る脳内部位とは、もしかしたら結構近かったりするんじゃないだろうか。(まったくの憶測ですけど・・・)
まぁ、ショートカットも、ブラインドタッチも、すげーよな、自前の手足みたいでさ、って話です。



最近、車内で本読もうとすると、気付くと視線が行間の渓谷をするりするりと滑り進んでしまい、ページは進んでるのに、頭んなかにぜんっぜん入ってこない。足跡も見えない。そういうことって、あるよね。年?


カポーティの「夜の樹」という本を探しています。絶版らしーんだよ。
誰か貸してください。
カポーティの小説って、「もういややー」ってぐらい精神的にだるい状態で読むと、なめらかに身体に染み渡る。そんで、想像力が加速するんだよ。ビートルズのようです。
(ビートルズが想像力を掻き立てることはないけど。)

「樹の下に誰かが、―なにかがいるわ!」草の竪琴

NADiffで、新国誠一の本をジャケ買い。(ぺらぺら読んだけど)
こういうコンセプチュアルで、けれど、意味性を徹底的に否定したようなものは好きだ。デザインだもんね彼の詩は。ダンス。
湯浅譲二と西村朗の本も購入。



20日、赤坂GRAFFITIでのライヴ。
To the southさんとのタイバン。完成度高し。
服部龍生さんのベース演奏、からだが楽しくなる。素敵。
またぜひ観たいと思うステージは本当に久し振りだ。
少しお話をして、良き薫陶を受ける。


BJORKの「The Dull Flame Of Desire」
素晴らしい。Antony Hegarty
http://jp.youtube.com/watch?v=BWV4N-ZcDJg

須山

http://www.ngatari.com/blog/

Saturday, January 17, 2009 

寒くなってきました。
先日庭で焚き火をして、焼き芋をつくった。
落ち葉を集めて、煉瓦やらブロックやらを組んでプチかまどを拵えた。
うーむ、火遊びはやっぱり楽しいなー。

小学校のころ、よくキャンプに行った。
石を積んで川を塞き止めたり、岩壁を掘って横穴を空けたりして、友人と日が暮れるまで遊んだ。
当時のぼくらが川の水を塞き止めることにどんなおかしみを見出していたのか見当もつかないけれど、でも、そのときのぼくらのアタマの中には、「コレつくらなあかん」という一種の強迫観念があったような気もする。本能的遊戯というか、神経症患者というか。
でも、火をおこしたり、水路をつくったり、雨風から(あるいは来る敵襲から)身を守ったりすることは人間が本有的に持つ性質だからか飽きることもなかったし、またルーティーンワークのような"業務"でもないわけで、とても楽しかった。

子供たちは『十五少年漂流記』とか『ロビンソン・クルーソー』など、
「順風満帆なシティー生活が一変して、原始的生活を強いられ、それでもうまく生きていく」的冒険物語に憧れる。(ぼくは今でもひそかに憧れている。)
とはいえ、まともな大人は手作りのダムを偏愛したり、無人島で木片をかき集めて仮設基地を作ったりはしない。
(たまに公園にそういう大人がいる。彼らは思い思いの焚き木を集めて上手に暖をとっている。)

職業的大工は仏頂面でいつも鉋をかけているし、
釣り人たちは浮きが持ってくるであろう凶報の通達をじっと待っている。(ように見える)
日銭のために焼き芋を作るとなったら、苦役に違いない。
(結果、街角を漂浪する石焼きイモ屋は、おそろしいほどに値段を釣りあげる。事実焼きイモは高い。あまりに高い。)

そういえば、遠浅の海辺で不法漁をして捕まった人が「アワビを孫に食べさせたかった」と言っているのをテレビで見た。
メディアリテラシーのないぼくなんかは、至極まともな行動理由とモチベーションだと思うのだけど、海域はそれを許してくれないらしい。いいじゃねーかアワビぐらい。そもそも海域ってなんだ?

はぁ、話が二転三転してしまった。とにかく晩秋の夕暮れに食べる焼きイモは格別です。

夕食はタコ(タコがひどく安かった。朝鮮産か?)と茄子ときのこの煮付け、アスパラと豆腐とモヤシのサラダ、あと韓国人の友人から頂いたキムチや海苔なんかを食べる。
夕食後、遅れまくっている新作音源のアレンジに励む。こそこそとキーボードを叩き、採譜する。
音楽は焚き火やダム作りのようだと思う。じょうずに組み立てれば燃え上がって、整合性を極めれば水面は静謐を宿す。

橋本治と、養老孟司と甲野善紀の共著「自分の頭と身体で考える」を交互に読みつつ、デュック・エリントンを聴きながら眠る。

須山

http://www.ngatari.com/blog/2007/12/post_4.html

Thursday, January 15, 2009 

Current mood:  loved

イナダやワラサがブリの幼魚だったなんて、はじめて知りました。
そういうことって、わりに知らないよね。
イナダもワラサも非常に美味しい魚だと思うけれど、ぼくはブリをあまり好きではない。
明けましておめでとうございます。

年末から体調を崩し、お正月は一歩も外へ出ることもなく寝込んでいました。布団のなかでツルゲーネフの「はつ恋」と手嶋龍一のウルトラダラーを交互に読んでみる。治らない。
「海を飛ぶ夢」を観たりする。
四日目を過ぎて、やっと快復し、ぼちぼちと家族や友人に新年のご挨拶をする。
ひどく遅れて初詣にも行った。
ぼくはひどく出不精、というか、余分な外出に時間を割くのが嫌いなのだけれど、季節モノの行事は大好きなので、雑踏にもまれようが、貴重な一日が潰れようが、一年に一度のイベントごとは、多いに堪能させていただく。人日の七草粥も好きだし、Thanksgiving Dayのターキーも好きである。両日とも何に感謝する日なのか知らないので、蒙昧な信仰ではあるけれど。

ただ、季節モノのイベントに意味性やイデオロギーを勘定に入れて是非を判断することもないんじゃないの、とぼくは思う。
もっぱら日本ってゆるい国だし。
クリスマスには華やかなイルミネーションの下を闊歩して、プレゼントを交換し、お正月はお雑煮を食べて賀詞を述べ、凧を引っ張りまわして バレンタインにはチョコレートを食いまくればいいのである。年間を通して宗教的理念がなく、かつ思想的にかなりアバウトな(というか無思想マインドな)この国は非常に住みやすいし、何より愉快じゃないですか。

文化的にも、宗教的にも、ここまでフレキシブルな国って、そうはないよ。とくに日本人のダイナミックな言語感覚は本当に凄まじい。
シュークリームは仏語の「chou シュー(キャベツの意)」と英語の「cream クリーム」の造語だし、プチトマトとか、パンチラとか、ドタキャンとか、満タンとか、フリーターとか、驚愕の言語的創作だと思いませんか。日本すごい。

というわけで、12月から1月にかけて、世間は行事盛りシーズンであるので、わりとうきうきして外出するのである。
セールもあるしね。

今年もよろしく。

http://www.ngatari.com/blog/

須山