昨日NHKの「クローズアップ現代」で、落書き(おもにタグ)対策の話をしていました。フランスでは元文化相のジャック・ラング(社会党)が「グラフィティは文化である」と発言して失笑を買ったことがあります。昨日の番組を見ていたら、NHKの意図的な選択なのかもしれないけれども、「日本ってきれいなグラフィティが少なくて汚いタグばっかりだなあ」と思いました。
タグを家の塀に書かれたひとのことばなのだけれども、「自分のうちでやってほしいよねえ」。まさかこのひとは犯人が自分の家の塀に落書きをするべきだと本気で思っているわけではないのでしょう。まったく意味を考えることなくこういったことばが口をついて出るほどに、このような発想は人々の間に浸透しているのでしょうか。
非常に驚いたのが、東京メトロという「ニューウェイヴ感覚」の変な名前の地下鉄のマナーキャンペイン。たとえばこれです。

英語でも "Please do it at home" って書いてるんだけど、これって外人さんの旅行客には理解できるのかしら? 他にも車内の化粧、携帯電話の使用、音楽の音漏れなどについて「家でやろう」ということが勧められています。化粧以外には「家でやれ」ということばに真剣な意味が認められません。(いったい何で「車内で化粧はやめろ」とポスターで訴えかけなければいけないのか私には理解できないが。) 自分の家にいるのなら固定電話を使い、スピーカーで音楽を聴けばいいからです。地下鉄の座席はよほど変なひとでもなければ家にもっていないでしょう。
私はこのようなマナーキャンペインは、みんなに対して、少なくとも地下鉄の利用者に対して「こうしましょう」ということを言っているのだから、私の考えるところの日本の社会通念からすると、良心的なものであるはずなのではないかと思うのです。「あるべき」かどうかはわからないが、少なくとも「こういうのは良心的なものであるはずなのではないかなあ」と私は思うんです。ばかな私には理解できないけれども、現代の日本では良心的なものとみなされるものがこのふざけたメッセージのなかにはあるはずなのではないのか。
しかしこの「家でやろう」という何ともシニカルというか冷めた態度のことばは良心と両立しうるものなのでしょうか。私にはどうしてもこれが良心的なスローガンであるとは思えません。この広告を制作したひとはその自分の冷笑的な態度に気がついているのでしょうか。きっと制作者はシニカルなものとしてこの広告をつくったのではないのでしょう。もしかしたら本人は良心的なものとしてこの広告をつくっているのではないかという危惧を感じます。
イアホンの音漏れについて考えてみましょう。この地下鉄のポスターは「家でやろう」ということを言っています。「そうか」と思ったひとが家に帰って大音量で音楽を聴いて、隣人に苦情を云われたとします。このひとが「あのポスターのせいだ」と主張するかどうかはどうでもいい話です。このような仮定について「東京メトロ」の広報担当のひとはどう思うのか、ということです。おそらく、お客さんが地下鉄の交通網から外に出た後のことはまったく関係がない、ということなのではないでしょうか。だいたい東京メトロの従業員は自分の家に帰ったら家族のことは考えずに好き勝手なことをやっているのか。そうではないでしょう。だから「家でやろう」は実はマナーのキャンペインではない。ともかくあなたのうちのことはどうでもいいけど、「うちではやるな」というだけのことでしかない。あとは知らないよ、と。我々が苦情を云われるのはいやだ、ということしか動機がない。「家でやろう、うちではやるな」と書いてくれたらもっと意味がはっきりしたのではないか。
この座席独占を戒めようとしたかにみえるポスターは四月のものということですが、六月に秋葉原で殺傷事件が起きたときにも、テレビで「ひとを巻き込まないでひとりだけで死ね」というコメントを耳にすることがありました。これが冷笑的な意見として云われているのならいいのです。確か鳥越俊太郎もこういうことを云っていたと思うが(まちがってたらごめんです)、彼は冷笑的なジャーナリストとして売っているのか。そうではないでしょう。良心的であるはずの人間がこういうことを云ってしまうというのはどういうことなのか。
価値の相対化が流行なのは別にいいんです。でも価値の相対化の先にいったいどうしたら「無関心な良心」が現れるのか。ここのところの飛躍そのものがわからないわけではないが、どうしてその罠にすっぽり落ちなければならないのか、それがわからない。私にとっては、価値の相対化の論理的な帰結は「私はこうだ」です。相対化の先に「何も云えない」が真実として現れるのではない。それは論理の過誤です。なぜならばここでは相変わらず「口にされるべき絶対的真実」の存在が想定されているからです。その絶対的な真実が存在しないという負のかたちで存在しているからこそ、存在しない真実以外のことは口にできない、「何も云えない」という結論が導き出されるのです。「何も云えない」からせいぜい俺のところ、俺の仲間のところに来るなという身体的な快不快にもとづいたことしか云えなくなってしまうのです。
しかし絶対的な真実が存在しない相対化の果てに現れるべき地平は「すべてが云える」なのです。18世紀の無神論者の作家の多くが「すべてを云わなければならない」とその作品のなかに記していることは、流行や時代の雰囲気だったのかもしれませんが、それでも偶然ではありませんでした。
いつも云っていますが、私の意見では、たとえここ二百年の間の人権や市民の平等といった面での進歩は否定できないとしても、18世紀末の市民革命は文化と理性を破壊し、我々の理性はいまだ18世紀の文人のレベルにまで回復していません。私はこういうことを書いて過去を悔やんでいるけれども、それでも一部の人間の教養の高さを多数の人間の幸福と比べることはできないと思っています。このように考えると、この二世紀の間、人間はただ18世紀に醸成された人権思想を活用してきただけではないのかとも考えられます。もちろん活用は意味のあることであり、活用されない人権思想には意味がありません。
あるブログのコメントで、「人権の話をするときに、もうロックやルソーは関係ない」ということが書かれているのを読みました。学校の先生がこういうことを書いているわけではないのでしょうから別に見過ごしてもいいのですが、流行りなのかもしれないけれども、この「関係ない」というものいいは何とかならないのでしょうか。「ロックやルソーだけではやっていけない」と云うのなら、そうかもしれないとは思います。しかしもしロックやルソーがもはや人権に関係ないのなら、ロックやルソーと密接な関係をもつということにされているフランス革命の際の人権宣言も関係ないということになりますね。このひとによれば「そのとおりだ」ということなのかもしれないのだけれども。
相対化が流行なのは別にかまわない、それを倫理とするのもいいでしょう、しかしこのようにして人権思想を根無し草のものにしてしまおうとする動機はいったい何なのか。自分のテリトリーから向こうがみえない東京メトロのひとと同じように、今生きている人間以外は人間の共同体のなかに数えられていない動物的な発想がここにあるのではないでしょうか。
書物のなかのことばを死者のことばとみなすのは、人間の宿命であり、避けがたい悲劇です。しかし書物のなかに閉じ込められた死者のことばを生きたものが語ったものとして読み直す可能性を探ろうではありませんか。
ひとは知識を得るためにのみ書物を読むのではありません。対話するために読むのです。書物が食べものではないのは、同じ本を読んでも何も獲得しないひとと多くをえるひとがいることからでもわかります。書物に書かれていることばをかつて生きたもののことばとして読むことをしましょう。ここに開ける世界を拒絶して、今生けるものの世界のなかに向けてすべてを消費してほしくないのです。
なぜ本を読むのかといえば、それはブランショの云ったように、「友人のいない未知の人間に対する友情」のためではないのでしょうか。書物のなかに書かれていることは確かにかつて生きたひとの書いたことばではありますが、作者とことばの死によって変質をこうむっています。私たちは18世紀の哲学者を読むときに、「友人のいない未知の人間」のことばに対するようにして、「友情をもって」読むのでしょう。バタイユは「私をニーチェに結びつける仲間の感情から、孤立した特異性へと向かう欲望ではなくて、コミュニケイションへの欲望が生まれる」と云いました。このことばを引用したジャンリュック・ナンシーは「我々はさらに先へ行くしかない」とだけつけくわえました。過去との交流、死者との交流(オカルトじゃないよ)を自らあきらめて、わざわざ共時性以外のものの存在しない動物的な世界へと後退することはやめようではありませんか。たかが二百年そこら前の著述家の思想を関係ないと云って切り捨てるのは、近視眼的なのではない、動物的なのです。(モンテスキユやベッカーリアを読まなくても立派な法曹になれるのと同じことで、人権団体などにおいて具体的な仕事をしているひとにとって、その仕事と18世紀の思想は実質的に関係がないということであれば、私は理解します。)
今生けるものが苦しむことだけが問題なのではないのです。「だれにも読まれない書物はどれだけその孤独に苦しんでいることか」という質問は狂気ととらえられるでしょうか。しかし死者をかつて生きたものとして、友情をもってとらえなおすことが、「生きているものを死者とみなす」もうひとつの狂気、死者は生きていると考える狂気とは比べものにならないほどの深刻な狂気と闘うための有効な手段なのだと私は信じます。
「無関心な良心」の誕生は、自分の目にみえていない人間はすべて死者とみなしてもかまわないという精神状態から生まれています。自分の目の行き届いている世界のなかで自分が良心的であれば、その良心に対する意識は脅かされることがないという時代が訪れているということでしょうか。
人権宣言を起草したミラボーが好色文学の作家であったということは重要な事実だと思います。サド侯爵と同じ監獄にいた「すべてが云える」放蕩息子が人権思想の土台に位置するということの意味を、自分のテリトリーでだけ通用する無味乾燥な「無関心な良心」を決め込むひとは考えた方がいいと思います。一方でルソーは18世紀の鬼っ子であり、好色文学は書いていないけれども、随分変なことを書いています。読みもしないで退屈で平和な読みもののジャンルに押し込めるのではなく、これらの著述家を再発見することによって、人権思想が生まれた土壌を再発見することができるのです。まったく関係ないどころの話ではありません。これらの人物が二百年以上前に死んだということはひとつの事実でしかありません。自分が読んでいない本は、いつ書かれたものであろうと、未知のものとして同じ読まれる権利をもっているのです。
muroyanei